
南成瀬を散策しました。長津田駅を北に出て西の方向にしばらく歩くと子供の国線の踏み切りとなります。なんといまどき火の見やぐらがあるのです。どう使われているのでしょうか?恩田川のすぐ近くに下水処理場つまりクリーンセンターがあります。
この近くの小さな林の中に磨耗の著しい地蔵菩薩立像がありました。なんでも義民として扱われている原嶋源右衛門とその一家の東光寺講中による享保14年(1729)建立の供養塔だとか。享保年間東光寺部落と長津田部落との間に境界線を巡る争いがあり、木炭を埋めて幕府の役人に検地をさせてそのまま境界を認めさせたのだが実行首謀者の原嶋一族が処刑された地なのだそうです。昼なお暗い木々の間にこのような供養塔があるのは、背景を知ると気味悪いものです。
園内には道祖神、庚申塔、馬頭観世音など色々な石造建造物が配置されていました。












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家康の墓所、奥社に至る参道の入り口である東回廊の馬道上の蛙股の彫刻が、あの有名な左甚五郎作といわれている眠りネコです。裏はスズメとなっていて平穏の象徴だといわれています。
そこを過ぎると一枚岩の石畳の続く静かな参道。やっと上りきるとまず拝殿。

その裏に家康の墓所となっている宝塔がありました。
参道ではいろいろな植物に出会いました。タマアジサイHydrangea involucrataはシーボルトのFlora japonicaにも出ています。アジサイ好きのシーボルトとしては当然でしょう。
朱色の艶やかなホソエノヌカホコリHemitrichia clavata var.calyculata発見!変形菌のsurrealisticな外形にはいつも驚かされます。
紹太寺は本堂を拝観してから参道に入って面白くなっていきます。
300段を超える石段は折しも雨で滑りやすくなってはいましたが木々の中を歩くのは爽やかなものでありました。
まもなく正則の重臣田辺権太夫夫妻が寄進した透天橋に至りました。この下は放生池になっていたのですが今はほとんど水がありません。
この先両側にある石柱は楼門の前に建てられていたものでその年代は不明です。この辺の平地にかつては七大伽藍が展開したのです。まっすぐ行くと春日の局と稲葉家代々の墓地なのですが、右の山道に入って鉄牛禅師の供養塔を目指しました。沢が近いせいか道に沢蟹がおりました。テンナンショウやミョウガが沢山目に付きました。

「鉄牛和尚の寿塔」は鉄牛和尚六十歳の貞享四年(1687)に紹太寺二世超宗和尚が師の長寿を願って建立しました。
小田原ですばらしい古刹にめぐり合いました。入生田の長興山紹太寺です。小田原から箱根登山鉄道に乗り、箱根板橋、風祭そして入生田となります。小田原城の第二代藩主稲葉美濃守正則が父母の冥福を祈るべく宇治の万福寺から鉄牛和尚を招いて開いたもので東西1.9km、南北1.1kmの広大な敷地に展開していたものです。元禄4年(1691)にケンペルが紀行記「江戸参府紀行」に立派な様子を記しています。しかし安政の火事でほとんど焼失してしまい、現在の本堂はかつての子院の清雲院跡地に建てられたものです。時折小雨の降る中を歩きました。
旧東海道に接する総門跡にある石柱は昔の総門で使用された石を積み上げたものらしいです。





Fleet Streetとthe Thamesとの間にTempleと呼ばれる地区があります。ここのthe Temple Churchは十字軍の時代に設立されたテンプル騎士団が1185年に設立したもので円形の身廊circular naveのあるちょっと変わった建築です。入り組んだところにあるので見つけにくいと思います。私がここを知ったのはThe da Vinci Codeでした。Langdonに”The architecture was coarse and simple,more reminiscent of Rome's rugged CastelSaint’ Angelo than the refined Pantheon”と言わせています。小説や映画で有名になって観光客が来ているのではないかと危惧していましたがひっそりとして杞憂でした。
昨年秋に行って以来半年振りのロンドンは年々温かくなっているような気がしました。ここからはすぐに帰国できるという気安さもあってゆったりと過ごすことができました。宿はthe Strandにあるホテル、the Savoyの向かいにあり便利なところです。エジンバラから着いた当日はTottenham Court Road近くのギリシャ料理店に行きました。この辺はどこもおいしいのですがいつも行くギリシャ料理店がイタリア料理店に変わっていました。時代の流れでしょうか。Retsinaという松脂の香りのワインは結構良かった。翌日はNational MuseumでHogarthやGainsboroughを見てきました。

昼はCharing Cross近くの有名なシャーロックホームズパブで気軽にサンドイッチ。
エジンバラ城からthe Palace of Holyroodhouseまではまっすぐな下り勾配のthe Royal Mileと呼ばれている広い道でCasltlehill, Lawnmarket, High Street, Canongateと名前が変わっていきます。
左手のThe Royal Bank of Scotland本店は町の中心なので良い目印になりました。
少し歩くと右手に立派な教会がありました。854年に設立されたThe High Kirk of St Gilesです。スコットランドの宗教改革者John Knoxのいたところです。現在は立派なゴシックの建物ですが19世紀に整備されたものです。スコットランドは教会にkirkを当てることが多くみられます。明らかにドイツ語のKircheと同語源でしょう。

スコットランドの首都エジンバラを旅しました。British Airwaysで順調に夕方に到達するはずでしたが、ロンドンでの到着が遅れて急遽British Midlandで真夜中に到達することになってしまいました。宿舎はエジンバラ城を間近かに見上げるGrassmarket。外科医と内科医は養成過程も医師会も違います。外科医は1505年にcraft guildとして結成された床屋の団体The Barber Surgeons of Edinburghに初めてまとまることになり、エジンバラ王立外科大学The Royal College of Edinburghが創立されることになります。ここには病理標本や医学史などをわかりやすく展示した博物館があり、2005年にはSurgeons Hall Museumとして医師以外の人々にもわかりやすく整備されることになりました。
玄関の彫刻。ラテン語でHinc Sanitasと記してありました。「これより健康が出ずる」と訳せばよろしいでしょうか。
大学構内。
Museumではなんと卒業生のコナン・ドイルの展示がありました。外科学教授のJoseph Bellはホームズのモデルだったということで有名です。
柳生の円成(えんじょう)寺から春日山南麓に沿い滝坂道を下る旅を楽しみました。奈良坂から柳生に向けて車で旅立ちました。途中左に曲がると岩船寺に向かうことができます。
真言宗忍辱山円成寺は万寿3年(1026)命禅上人の開山になる古刹です。
平安時代後期の浄土式庭園の遺構です。
楼門は重文。
多宝塔は最近のものですが運慶作の大日如来を拝観できます。
本堂には阿弥陀如来が安置され、円柱には菩薩たちの彩り鮮やかな姿が描かれていました。
鎮守社として安貞2年(1228)に建造された白山大権現を祀る白山堂(右)と春日大明神を祀る春日堂(左)は最古の春日造社殿として国宝に指定されています。
延宝3年(1675)建立の簡素な拝殿。


羽生駅のすぐ北に古江宮田神社があります。この神社は毘沙門山古墳と呼ばれる前方後円墳の上に建てられていてそのすぐ下の境内には毘沙門堂もあります。古墳を上がろうとしたところに高さ259cm、幅185cmの巨大な板碑があります。高さはこれを上回るものがありますが幅は真に広い。勿論緑泥片岩。将軍塚古墳の玄室への通路の天井も緑泥片岩だったことを考えると古墳の石材を流用したものでしょうか。建長8年(1256)の作で釈迦の種字バクと阿弥陀の種字キリークが薬研彫りで刻まれていました。
古墳の上の後円部にはシーソーやブランコの設置された小公園になっていて面白く感じました。写真はブランコに乗りながら社殿方向を撮ったもの。
行田市
持田の真言宗豊山派宝聚山宝蔵寺は900年頃に鑁阿上人を開基として設立された古刹です。ここにキリークとウーンを種字とした二基の板碑があると聞きましたがもはやありませんでした。どうやら板碑を多数収蔵する佐間の行田市史料館に移動したものと思われます。墓地の入り口には弥陀の種字キリークを刻した板碑がありました。

さきたま古墳群に前玉(さきたま)神社があります。これが「埼玉」と関係あるらしいのです。以下は社頭掲示板の記述です。「明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当所の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉郡(さきたまぐん)という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所である。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。」
泉涌寺は皇室の菩提寺で御寺とも呼ばれています。京都駅から歩いても行ける近場にあるのに不思議なほどの静寂に包まれていて私のとても気に入っているところです。山門から伽藍には下っていくのがなんとも珍しいです。


林泉形式の庭園は月輪御陵の前庭と御座所の庭を兼ねて元禄年間に造られたものです。
中央の雪見灯籠は仙洞御所より移されたもので第119代の光格天皇が特に好まれたそうです。開き気味の脚、八角系の中台と火袋となって頂上に宝珠が乗り、均衡がとれていて泉涌寺型と呼ばれるものです。塀の向こうに見えるのは月輪御陵で四条天皇をはじめとする二十五帝陵、九御墓、五灰塚等と孝明天皇陵、英照皇太后陵などがあります。明治期の神仏分離令以前は塀も無く庭園と自然につながっていたと聞きます。

泉涌寺関連の広大な敷地を歩いてみるのも面白いのに気づきました。山門の手前を左に下っていくと今熊野観音寺があります。泉涌寺の塔頭で西国33ヶ所観音霊場第15番目の札所にもなっています。応仁の乱で伽藍は消失しましたが、その後再建され、本堂には空海の作と伝えられる十一面観音があります。京都駅まで歩いていけるようなところなのに突然静謐な環境に飛び込んでしまい驚きました。郭公の名所として知られているそうです。
33箇所めぐりのお堂が続くその上に医聖堂と呼ばれる多宝塔がありました。近世の原益軒、前野良沢、杉田玄白、華岡青州、高野長英、緒方洪庵などの著名な医学者の他に解剖学者で京都大学総長も務めた平澤興(生家のある新潟県味方村にも行きました)などの名もありました。


清涼寺(嵯峨の釈迦堂と言ったほうが京都では通じるようです)には先月行ったばかりなのですが、有名なお松明式があるというので再訪しました大文字送りや鞍馬の火祭と並んで京都三大火祭として知られています。3月15日の涅槃会の法要のあと、午後8時半に三基の大松明(2.1丈、2丈、1.9丈)に火がつけられその年の稲作の豊凶が占われます。今年は前日の雨のせいか火付きが悪く凶と出たという話でした。この静かな嵯峨野にどこから来たかと思われるほどの人の出でした。境内の店の栗ぜんざいとあぶり餅はおいしかった。境内には興味ある石仏などが多く、庭園も立派でよいもので昼もゆっくり楽しめるところです。この日には涅槃絵も公開され、滅多に見られないものを鑑賞することができました。

二尊院から愛宕街道を念仏寺に向かう途中を左折した奥に祇王寺があります。苔むした美しい庭のある静かな小さな寺ですが、人気のあるところです。明治期に当時の京都府知事の別荘の茶室が移築された草庵もなかなか風情があります。
その左脇の崖淵に祇王、その妹祇女、母刀自の墓といわれる三重塔と平清盛の供養塔といわれる五輪塔が静かに立っていました。
三重塔は鎌倉中期のもので初重軸部には四仏が彫ってあります。
五輪塔は鎌倉後期のもので水輪に金剛界四仏の種子が彫ってあります。天草本平家物語巻二の清盛の祇王に対する寵愛ぶりと仏御前の登場のくだりです【右馬。 さてまことに誰にも彼にも清盛は難儀をかけた人ぢやの? また其の祇王が事をも聞きたい。お語りあれ。
喜。 長い事なれども申さうず。清盛はこのやうに天下をたなごころに握られたによつて、世間の誇りをも憚らず、人の嘲りをもかへりみいで不思議な事のみをせられてござる。たとへばその頃都に聞えた白拍子の上手に祇王・祇女ぎによといふ姉妹おととひの者がござつたが、とぢといふ白拍子の娘であつた。姉の祇王を清盛の愛せられたによつて、妹の祇女をも世上の人がもてなす事は斜なのめならなんだ。母とぢにも好い家を作つてとらせ、毎月ぐわちに百斛こく百貫を送られたれば家内けない富貴ふつきして樂しいこと限りなかつた。京中の白拍子ども祇王が幸のめでたい樣やうを羨む者もあり、そねむ者もあり、まち\/であつた。うらやむ者共は、「さても果報な祇王やな! 同じ遊女あそびをんなとならば、誰も皆あのやうでこそありたけれ。あはれ、これは祇ぎといふ文字を名についたによつてこのやうにめでたいか。いざ我等もついて見め。」というて、或は祇一とつき、祇二とつき、或は祇福、祇徳などといふものもあつた。また嫉む者共は、「なぜに文字により名にはよらうぞ? 幸は前世の生れつきでこそあれ。」というて、つかぬ者も多かつたと申す。
さうして三年目にまた都に聞え渡つた白拍子の上手が一人できたが、加賀國の者で、名をば佛と申した。年は十六でござつた。昔から白拍子もあつたれども、このやうな舞は未だ見ぬというて、京中の上下じやうげもてなす事はかぎりがなかつた。】

二尊院から十数分も歩くと浄土宗の化野念仏寺です。空海がこの付近に野ざらしになっていた遺体を供養したことに始まる寺です。周辺の石仏を集めた結果このような膨大な数に達しました。このような風景を初めて見たときにはどっきりとするでしょうが、他にも湖東の引接寺、蒲生野と石塔寺でも見かけられます。化野というと必ず、徒然草第七段が思い出されます。高校生のときにこれを読みましたが、世のはかなさを感じただけでなく、人は40歳にちょっと足らないくらいで死ぬのが適当だという言葉には驚いたのを覚えています。【あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出ヰで交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。】

二尊院の堂々たる山門から入ると広い参道が目の前に広がります。小倉山山ろくに展開する雪景色が幻想的な美しさでした。
重要文化財の室町時代建立の本堂も美しい姿を見せていました。私が興味を持っているのは堂宇後方に展開する石造物です。
本堂右脇の石段を上り詰めると正面に法然上人の廟といわれる小さな建物が現れます。
花崗岩製の丁寧に作られた空公行状碑が中に安置されています。実際には二尊院を再興した湛空上人の碑です。寧波出身の梁成覚の作であることが銘記されています。13世紀後半のものでしょう。有名な伊派の伊行末と同時代同郷の石工なのが興味深いです。当時かの地から多くの優秀な石工が日本に到来して活躍したのでしょう。
下関地区には住吉神社と巧山寺にそれぞれ国宝の建造物があります。まずは住吉神社を訪れました。大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉と称されています。長門一ノ宮というだけあって堂々たるものでした。住所も一の宮です。
応安3年(1370)に大内弘世が建造した国宝の本殿は向かって右から第一殿( 住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)) 、第二殿(応神天皇)、第三殿 (武内宿禰命)、第四殿 (神功皇后)、第五殿(建御名方命) となっており、5つの一間社が合の間を介して一列に連なった九間社流造りです。調和の取れた美しい造りだと思いました。
本殿の裏手。
天文8年(1539)に毛利元就の寄進した拝殿は中央の第三殿の前にあり、重要文化財に指定されています。
狛犬の顔つきが面白い。
水船もちょっと変わっていました。下関市一の宮住吉1-11-1
華厳宗の古刹阿弥陀寺は重源が佐波川上流の巨木を東大寺再建に使用することに成功し、後白河法皇の現世安穏祈願の為に文治3年(1187)に建立したものです。東大寺別院となっています。
仁王門は茅葺の風情のあるもので金剛力士像は慶派により鎌倉初期に造られたものです。周りの景色とよく融合してしっとりとした良いものだと感じました。
堂宇はさほど古いものではありません。国宝の鉄宝塔、水晶五輪塔を見たかったのですが寺の人と連絡がとれず残念に感じました。あじさい寺として知られているようですが石橋の欄干にまであじさいが刻まれていて、観光の意図が露わで好感を感じませんでした。
重源由来の石風呂があって毎週第一日曜日に利用できるそうです。防府市天神1丁目6-37